風邪をひいて病院に行くと、診察代と共に薬代を支払います。
その際、「この薬、どうしてこんなに高いのだろう?」と疑問に思ったことはありませんか?
特に、がんや難病の治療に使われる薬の中には、1回の投与で数十万円、年間では数千万円にもなる「高額医薬品」が存在します。
薬の価格が高い背景には、私たちが普段目にすることのない、長く険しい「新薬開発」の道のりと、それを支える複雑な社会の仕組みがあります。
この記事では、薬の価格、すなわち「薬価」がどのように決まるのか、そしてその価格の根拠となる医薬品開発の莫大な費用の内訳を、専門的かつ分かりやすく解説していきます。
薬価の裏側を知ることで、医療や健康に対する見方が少し変わるかもしれません。
薬の価格「薬価」が決まる仕組み
私たちが普段「薬の値段」と呼んでいるものは、正式には「薬価」と言います。
一般的な商品の価格がメーカーや販売店によって自由に決められるのとは異なり、病院で処方される医療用医薬品の価格は、国(厚生労働省)が一律に定めています。
この公定価格制度を「薬価基準制度」と呼びます。
国が価格を決める「薬価基準制度」
なぜ国が価格を決めるのでしょうか?
それは、日本が国民皆保険制度を採用しているからです。
国民皆保険制度の下では、患者が支払う医療費は一部(通常1〜3割)で、残りは私たちが納める保険料や税金で賄われています。
もし薬の価格が自由競争に委ねられると、価格が高騰し、国民の医療費負担や国の医療保険財政を圧迫しかねません。
そのため、国が専門家(中央社会保険医療協議会、通称:中医協)の議論を経て、医薬品の価格を一つひとつ決定し、全国どこでも同じ価格で薬が提供されるようにしているのです。
新薬の価格はどう決まる?2つの算定方式
新しく開発された薬(新薬)の価格は、主に2つの方式で算定されます。
- 類似薬効比較方式
既に市場にある、効能や効果が似ている薬(類似薬)を基準に価格を計算する方法です。 類似薬の一日あたりの薬価をベースに、新薬が持つ独自性や優位性(画期性や有用性)が認められれば、価格が上乗せ(加算)されます。 - 原価計算方式
比較対象となる類似薬がない、全く新しい画期的な薬の場合に用いられる方式です。 薬の製造にかかる原材料費や製造経費、研究開発費、そして製薬会社の営業利益などを積み上げて価格を算出します。
これらの方式で算定された後、海外(アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス)での価格と比較して、価格が高すぎたり安すぎたりしないように調整(外国平均価格調整)が行われることもあります。
一度決まった薬価も定期的に見直される「薬価改定」
一度決められた薬価は、永久に同じではありません。
原則として2年に1度(近年は毎年)、価格の見直しが行われます。これを「薬価改定」と呼びます。
薬価改定の主な目的は、市場での実際の取引価格(市場実勢価格)と公定価格である薬価との間に生じる差(薬価差)を是正することです。
医療機関は製薬会社や卸売業者から薬を仕入れますが、その際の仕入れ価格は薬価よりも安くなるのが一般的です。
この差額が「薬価差益」として医療機関の利益となる一方、国民が支払う保険料や税金が無駄に使われているとの指摘もあります。
そこで国は、定期的に市場での取引価格を調査し、その実勢価格に合わせて薬価を引き下げるのです。 これにより、国民の医療費負担を軽減する狙いがあります。
新薬開発にかかる莫大な費用の内訳
薬価の根幹をなすのが、新薬を一つ世に送り出すためにかかる莫大な研究開発費用です。
日本製薬工業協会(製薬協)の2024年の調査によると、一つの新薬を上市させるための期待研究開発費用は、グローバル開発の場合で1,415億円にも上ると推計されています。
なぜこれほどまでに高額な費用がかかるのでしょうか。
その内訳を、開発のステップごとに見ていきましょう。
1. 基礎研究:数万分の1の確率で「薬の候補」を探す
新薬開発の第一歩は、病気の原因となるメカニズムを解明し、それに作用する可能性のある化合物を探し出す「基礎研究」から始まります。
- 期間: 2〜3年
- 内容:
- 病気の原因となる遺伝子やタンパク質の特定
- 数万〜数百万種類もの化合物の中から、標的に作用する可能性のある「候補物質(シーズ)」の探索
- 候補物質の化学構造の最適化
この段階は、まさに砂漠で一粒の砂金を探すような作業です。
一つの医薬品として世に出る確率は、2万〜3万分の1とも言われています。 ほとんどの候補物質は、この最初の段階で有効性や安全性の問題からふるい落とされていきます。
2. 非臨床試験:動物などで安全性と有効性を確認
基礎研究で選び抜かれた候補物質は、次に「非臨床試験」へと進みます。
これは、人で試験を行う前に、動物や培養細胞を使って薬の安全性と有効性を徹底的に調べる段階です。
- 期間: 3〜5年
- 内容:
- 薬理試験: 薬として期待される効果(薬効)があるかを確認
- 薬物動態試験: 薬が体内でどのように吸収、分布、代謝、排泄されるかを調査
- 安全性(毒性)試験: どのような毒性があるか、どのくらいの量で毒性が出るかなどを評価
ここでも多くの候補物質が、効果が不十分であったり、予期せぬ毒性が発見されたりして、次のステップに進むことができません。
この段階をクリアして、初めて国(医薬品医療機器総合機構:PMDA)に「人を対象とした試験(臨床試験)を行いたい」という申請をすることができます。
3. 臨床試験(治験):人で安全性と有効性を確かめる最も困難なステップ
非臨床試験をクリアした「薬の候補」は、いよいよ人での有効性と安全性を確認する「臨床試験(治験)」へと進みます。
治験は3つのステップに分かれており、新薬開発において最も時間とコストがかかる、最も困難なプロセスです。
| フェーズ | 対象 | 目的 | 期間の目安 |
|---|---|---|---|
| 第Ⅰ相(フェーズ1) | 少数の健康な成人 | 主に安全性の確認(副作用の種類、程度)、体内での薬の動き(薬物動態)を調べる | 2〜3年 |
| 第Ⅱ相(フェーズ2) | 少数の患者 | 有効性の確認、最適な投与量や投与方法を探る | 2〜3年 |
| 第Ⅲ相(フェーズ3) | 多数の患者 | 既存の薬や偽薬(プラセボ)と比較し、有効性と安全性を最終的に証明する | 3〜5年 |
治験の各段階には厳しい基準が設けられており、多くの候補薬がここで開発中止に追い込まれます。
特に、少数の患者で有効性を探る第Ⅱ相試験は「死の谷」とも呼ばれ、ここを突破できる確率が最も低いとされています。
製薬協の調査では、第Ⅱ相の成功確率は26.2%というデータもあります。
この長い治験プロセス全体を乗り越え、最終的に承認に至る確率は、約10%以下と非常に低いのが現実です。
4. 承認申請と製造販売後調査:市販後も続く安全性への投資
第Ⅲ相試験までクリアし、有効性と安全性が科学的に証明されると、製薬企業は集積した膨大なデータをまとめ、厚生労働省に医薬品としての承認を求める「承認申請」を行います。
- 期間: 1〜2年
- 内容:
- PMDAによる厳格な審査
- 中医協での薬価算定
無事に承認され、薬価が決定すると、ようやく新薬として医療現場に届けられます。
しかし、これで終わりではありません。
市販された後も、製薬企業には「製造販売後調査(PMS)」が義務付けられています。
これは、治験では分からなかったまれな副作用や、長期的に使用した場合の有効性・安全性を継続的に調査し、国に報告する制度です。
この市販後の安全対策にも、多大なコストがかかり続けます。
薬価を押し上げる「開発費用」以外の要因
1,000億円を超える直接的な開発費用に加え、薬価をさらに押し上げる間接的な要因も存在します。
失敗した開発のコストも価格に含まれる
前述の通り、新薬開発の成功確率は極めて低いです。
一つの成功した薬の裏には、その何十倍、何百倍もの失敗したプロジェクトが存在します。
製薬会社は企業として存続し、次の新薬開発に挑戦し続けなければなりません。
そのため、無事に発売に至った一つの新薬の価格には、途中で開発を断念した数多くの「薬の候補」に投じられた研究開発費も、事実上含まれているのです。
これが、成功した薬の価格が非常に高額になる大きな理由の一つです。
特許期間中に開発費用を回収する必要性
新薬は開発した製薬会社に「特許」という独占的な権利が与えられます。
特許期間(出願から20〜25年)中は、他の会社は同じ薬を製造・販売することができません。
しかし、開発には10年以上の歳月がかかるため、実際に製薬会社が独占的に販売できる期間は10年程度しか残されていません。
製薬会社は、この限られた期間内に、莫大な開発費用を回収し、さらに次の新薬開発のための利益を生み出す必要があります。
このビジネスモデルも、薬価が高くなる一因です。
莫大なマーケティング・営業費用
薬を開発しても、医師や医療機関にその価値を理解してもらい、患者さんに適切に使ってもらわなければ意味がありません。
そのため、製薬会社は医薬情報担当者(MR)による情報提供活動や、学会・研究会への支援、広告など、多額のマーケティング・営業費用を投じています。
これらの費用も、最終的には原価計算方式における販売費・一般管理費として薬価に反映されることになります。
原材料費の高騰と安定供給のコスト
近年、医薬品の原材料(原薬)の価格が高騰しており、製造コストを押し上げています。
また、医薬品は人の命に関わるため、どのような状況下でも安定的に供給し続ける責任があります。
品質管理や在庫管理、災害時に備えたサプライチェーンの構築など、安定供給を維持するためのコストも薬価に含まれています。
こうした医薬品の厳格な品質保証を支えているのが、製造設備や工程が正しく機能することを検証する「バリデーション」という専門業務です。
例えば、医薬品製造の品質管理を専門に支援する日本バリデーションテクノロジーズ株式会社のような企業が、製薬会社の製造プロセスを支えています。
このように、目に見えにくい専門分野への投資も、医薬品の信頼性と安定供給を担保するために不可欠なコストとなっているのです。
日本バリデーションテクノロジーズ株式会社の取り組みは、その一例と言えるでしょう。
近年の動向と今後の課題
薬価を取り巻く環境は、常に変化しています。
特に近年は、新たな課題が浮き彫りになっています。
オプジーボ、キムリアなど「超高額薬剤」の登場
近年、がん治療薬「オプジーボ」や、白血病などの治療薬「キムリア」のように、画期的な効果を持つ一方で、一人あたりの年間薬剤費が数千万円にもなる「超高額薬剤」が次々と登場しています。
これらの薬は、遺伝子治療やバイオテクノロジーといった最先端技術を駆使して開発されており、従来の薬とは比較にならないほどの開発・製造コストがかかります。
こうした高額薬剤の登場は、患者にとっては新たな希望となる一方で、国民皆保険制度の財政を圧迫するという深刻な問題も引き起こしています。
国民皆保険制度の維持とイノベーションの評価の両立
日本では、誰もが安心して医療を受けられる国民皆保険制度を維持することが至上命題です。
そのため、医療費、特に薬剤費の抑制は常に大きな課題となっています。
一方で、製薬会社が画期的な新薬を開発する意欲(インセンティブ)を失わないように、そのイノベーションを薬価で適切に評価することも重要です。
革新的な新薬の開発が滞れば、将来救えるはずの命が救えなくなるかもしれません。
国民負担の軽減と、新薬創出の促進。
この2つのバランスをいかに取るかが、今後の薬価制度における最大の課題と言えるでしょう。
ジェネリック医薬品の役割と課題
新薬の特許期間が終了した後に発売される、同じ有効成分の薬を「ジェネリック医薬品(後発医薬品)」と呼びます。
ジェネリック医薬品は、新薬に比べて開発費用が大幅に抑えられるため、薬価が安く設定されています。
ジェネリック医薬品の使用を促進することは、患者の自己負担を軽減し、国の医療費を削減する上で非常に重要です。
しかし、近年では一部のジェネリック医薬品で供給不安が問題となるなど、安定供給の確保が新たな課題となっています。
まとめ:高額な薬価の背景にある複雑な構造
薬の価格が高い理由は、単に「製薬会社が儲けているから」という単純なものではありません。
その背景には、
- 1,000億円を超える莫大な研究開発費
- 3万分の1とも言われる極めて低い成功確率
- 10年以上にわたる長い開発期間
- 失敗した数多くのプロジェクトのコスト
- 特許期間中に費用を回収するビジネスモデル
- 国民皆保険制度を支えるための国の価格決定システム
といった、様々な要因が複雑に絡み合っています。
私たちが支払う薬代は、一つの薬の開発に人生を捧げた研究者たちの努力、そして未来の新しい薬を生み出すための投資でもあります。
薬価の仕組みを知ることは、私たちの医療の未来を考える上で、非常に重要な視点を与えてくれるはずです。